賢者の贈り物

この記事はトールキンワンドロ&ワンライ2020@1hTolkienさんの企画 #1hTolkien の第198回(4/18) お題「好きな台詞」に参加したものです。


「そうかもしれぬし、そうでないかもしれぬ」

 

いかにもガンダルフっぽいものいいですが、ありがたいのかありがたくないのか若干微妙な言い回しです。
ですが、「わしは嘘はつかぬ」と言い切っているガンダルフにとっては、本当に「正しい」ことを口にすると言うというのはなかなか制約が厳しいものであると言えます。

 

論理学では「命題Pは正しいか正しくないかのどちらかである」といった命題を恒真命題、恒真式などと呼びます。命題Pの中身がなんであれ、「恒に必ず正しい(=真である)」ことが証明できるからです。これなら確かに嘘を言う心配はありません。
結局何も言っていないのと同じじゃないのか? というご指摘はもっともで、トートロジー、同義反復なんて言われ方もします。

 

「エルフに意見を求めるな、良しと悪しとを共に言う」
とフロドは茶化していますが、論理的に正しいことを発言しようと思ったらそのぐらい慎重にならざるを得ないと言えます。論理というものは非常にデリケートなもので、ちょっと言葉をいじらだけで意味がおかしくなってしまったり、正しく伝わらなかったり、ねじ曲げて解釈されたりするものです。

 

「エルフは軽々しく忠告を与えることはめったにしない。
忠告は、賢者から賢者に与えても、危険な贈り物だから」
そう言ったギルドールも、上のエルフとして長い年月の中、言葉がねじ曲げられたことによる悲劇をたくさんみてきたのではないでしょうか。

 

「もしPだったならばQになります」という発言の「Qになります」だけが拡散され、元の発言と異なる文脈で使われてどんどんと意味が歪められてゆくケースは昨今では数多みられます。慎重にしたはずの発言を切り取られてしまうぐらいなら、発言しない方がましという事態になりかねません。ギルドールの言うとおり、軽々しくは送れないし、受け手もまた賢者であることが求められるものであると言えます。


「この国の人間たちは嘘をつかない、それ故たやすく騙されもしないのです」とエオメルは言いました。大昔に初めて読んだ時はローハンの人々は心が純朴だから嘘を見抜けるのか、と思ってしまいましたが、今考えるともうちょっと奥が深いかもしれません。
そもそも「嘘をつかない」ためには、単に正直であるというだけでなく、"こう言ったら嘘になってしまう"というバリエーションを検証し、丁寧にそれを避けるという論理的な思考が必要になります。そのような思考ができるということは、逆に論理の穴もチェックできるということに他なりません。

 

例えば「歳を取るとAが減る」と「Aが減るとBが弱くなる」が科学的な事実として正しかったとしても、「だからAが増えればBが弱くならない」が正しいとは限りません。ましてや「だからAを食べればBが弱くならない」は論理でも科学でもなく、もはや類感呪術の域です(笑)


ちなみに宣伝する方も論理的な「嘘」がばれるとあとで罰せられるので、「だからAを食べてBを元気にしよう!」とか書きます。論理ではないので嘘だと断定することが残念ながらできませんが、真実味はまったくありません。それでも不注意に読んでのせられる人は一定数いると思われます。ですが、ローハンの人たちならこんな宣伝に騙されることはないのかもしれません。

 


偉そうなことを書いていますが私自身は結構嘘つきです。つい今週も、締め切りが間近に迫った原稿について「あれどうなってます?」と問い合わせのメールをもらい「このコロナ騒ぎでまともに仕事ができなかったのでちょっと遅れそうです」と返事をしてしまいました。同様の案件も多かったらしく、わかりましたと了承いただきましたが、実際には"忘れていた"わけですらなく、最近いろいろ集中できなくて手につかなかっただけです、ごめんなさい、orz。

 

かなうものならファラミアのように誇りを持って、「大言壮語することなく最後まで成し遂げるか、あるいはその途中で死ぬか」と言えるような生き方ができる人間になりたいと願わずにはいられません。

#しかしこうしてみるとつくづく私の倫理観はトールキンに負っているんだなあと。

賢者の言葉

#この記事はトールキンワンドロ&ワンライ2020@1hTolkienさんの企画 #1hTolkien の第197回(4/11) お題「好きな台詞」に参加したものです。

 

「死んだっていいとな! たぶんそうかもしれぬ。生きている者の多数は、死んだっていいやつじゃ。そして死ぬる者の中には生きていてほしい者がおる。あんたは死者に命を与えられるか? もしできないのなら、そうせっかちに死の判定を下すものではない。すぐれた賢者ですら、末の末までは見通せぬものじゃからなあ。」

 

ガンダルフの台詞は全て誦じて言えそうなぐらいにどれも好きなのですが、あえて1番を挙げるとすれば「情けないと?」からここまでの一連のフロドとの会話でしょうか。ガンダルフが生死や善悪を説教するのは意外と少ないように思いますが、ここにおいても彼はあくまでも「待て」と言っています。お説教をする時にも、彼の言葉はいつも努めて中立を保とうとしています。賢者らしく"中庸"といってもいいかも知れません。「そうかも知れぬし、そうでないかも知れぬ」が彼の口癖です。がみがみ怒鳴りはするけれども過ちにも寛容で、暖かな包容力にも満ちています。

 

指輪物語全体を通して、トールキンはあまり善悪を説いていません。同僚であったC.S.ルイスナルニア物語に聖書のモチーフが色濃く現れているのに対して、トールキンの主なモチーフはサガのような伝説や英雄譚であり、仇同士の因縁の戦いもどちらかというと"物欲"が発端だったり、と、どちらかというと伝記や戦記のような書き手の立場から淡々と語られている印象があります。確かにモルゴスやサウロンは絶対的な悪としてサタンやルシファーに比する位置づけと言えますし、ガンダルフも「"復活"した救世主」のモチーフだと言われると当てはまらなくもないのですが、あまり押し付けがましくありません。どちらかというとものごとを俯瞰的に捉え、サポートに徹しようとしているのが彼の立場です。

 

それともう一つ気になる点が。指輪物語の特徴としてあげられるものに女性の登場人物の少なさがあります。元となるモチーフが主に英雄譚である以上、ある程度仕方ないのかも知れませんが、アルウェンやエオウィンのようなヒロインとガラドリエルの奥方様を除くと、他はほとんどおっさんとじいさんばかりです。それだけでなく、"母親"として現れるキャラクターの数となるとさらに少なくなります。私が思いつく限りでははっきりと母親としての役割で現れるのは最後にエラノールをサムの膝にのせるロージーぐらいですが、この時にもセリフはありません。他のキャラクターの母親もほとんど亡くなっているか行方不明か。ピピンは未成年でお母さんも存命のはずですが出番はありません。年齢的にはイオレスは該当する可能性はありますが、前線の病院に残って奮闘するあたり、彼女はいわゆるオールドミスではないかと踏んでいます(笑)。トールキンの生い立ちからすると、父親は早くに亡くしていますが母親との関係はそれほど険悪だったわけでも冷たかったわけでもないようなので投影云々をここでは議論しませんが、ちょっと偏りがあるように思います。

 

そう思いながら読み返していて気づいたのは、ガンダルフの持つ包容力、導く力、赦しを与えるその寛容さです。あのゴラムに対しても癒されるべき望みを捨てないのがガンダルフです。そう思うとかれの役割はメシアそのものではなくて、アラゴルンやフロドを導き育てる聖母に近いのではないでしょうか。そして全キャラクター中で"おかん"属性がもっとも高いのは実はガンダルフなのではないのでしょうか(笑)
探していくと、フロドをつきっきりで看病したり、ピピンを叱り飛ばすけどしっかりフォローしたり、いろいろ心当たりがあります。想像してみてください、かれが白い割烹着を着てお玉を持って味噌汁を作っていても全く違和感がないのではないでしょうか。


慈愛と憐憫を司る賢者にして聖母を兼ねるガンダルフに敬愛を表し、最後に有名なあの歌を捧げましょう。

 

僕が悩み事を抱えていると
ガンダルフ母さんがやってきて
智恵ある言葉を教えてくれたんだ

「かくあれかし」と

重荷

この記事は@yuura_ardaさんのツイートとリプを参考にしました。

指輪の一行が裂け谷を出発する前のシーンで、彼らの旅装が紹介されます。その中で、「ギムリだけが公然と短い鎖かたびらを身につけていました。ドワーフというのは身軽に旅をするものです」という一節があります。ですが"身軽"という割にはどうみても彼が一番重装備です(笑)。


確かに登山などの際、あとで必要になりそうなものをいろいろ持っていこうとするとどうしてもかさばるため「いっそ身につけてしまえば"荷物"は減る」という主張で家を出るときからフル装備のタイプの人がいます。そんな気分から"身軽"と言っているのかと最初は思ったのですが、原文を読んだらもっとシンプルでした。
英語では先ほどの文の後半は"for dwarves make light of burdends."とあります。"make light of"は辞書によれば"軽んずる"、"軽くみる"、の意味だそうなので、訳としては「ドワーフというのは荷物の重さをあまり苦にしないものなのです」といった感じでしょうか。これならまあイメージどおりの気がしてきます。『ホビットの冒険』でも、五軍の戦いの前、ダインの一族が山小屋の"歩荷"かヒマラヤのシェルパのように背負える限りの物資を背負ってはなれ山に増援にやってくる描写がありましたね。

 

一般に中世の鎖かたびら、chain mailとかhauberkとか呼ばれるものは、短いものでも7,8kg、大きいものだと10kg近くの重さはあったようです。そりゃ鉄の輪を編んでコートにしているのだから重いのは避けられません。2,30kgの重さがあったといわれる"板金鎧"や日本の甲冑よりはましだとは思いますが、それでも着けたまま何日も歩いて旅をするのはドワーフでもない只人にはしんどそうです。それを日々着けていたというデネソール侯の意志力はいかほどのものか。ボロミアの死による挫折と絶望さえなければ、彼もサウロンの悪意にそう易々とは屈しなかったのかもしれません。
一方、フロドが譲り受けた鎖かたびらは魔法のように軽かったそうですが、何せ"ミスリル"製なので重さの予想がちょっとつきません。


例えば自転車だとアルミやチタンフレームの製品は鉄の合金フレームの6,7割程度、カーボンファイバー製だと半分ぐらいの総重量になります。仮に一般の鎖かたびらの約半分とすると4,5kgとなりますが、小柄なホビットにはまだ重すぎるように思えます。フロドが着たまま旅をしていて負担にならないと言われていたことを考えると、せいぜい2,3kgぐらいだったのでしょうか。これならちょっとごつい皮のジャケットと思えば着て歩けなくもないでしょう。現代の"防刃ベスト"と呼ばれるものが2kgぐらいなので、イメージとしてはこちらに近いかもしれません。将来的にグラファイトカーボンナノチューブのハイブリット素材でも合成できるようになったら、軽くて強靭で金属のような光沢のある、ミスリルに近い防弾チョッキが実現するでしょうか。

 

実際問題として指輪の一行の荷物はどれぐらいだったのでしょう。山歩きで一週間分の食料とテントなどを背負っていこうとすると最低でも一人20kgぐらいは用意する必要があると思います。最近の素材に比べて昔の装備はもっとかさばるので30kgぐらいを覚悟でしょうか。自衛隊の行軍訓練では60kgぐらい、歩荷さんになると50kg~100kg(!!)の荷物を背負って歩くのだそうです。ここまでくると文字通りドワーフ並みの耐久力が求められそうです。
指輪の一行は数週間の旅程を想定していたはずなので、最初は小馬のビルに大部分を運んでもらったにしても各自それなりの大荷物を背負っていたと思います。特にサム。アルプス縦走や従軍経験のあるトールキン教授はそのあたりは実体験をもって具体的にイメージしていたに違いありません。
もっともあまり荷物ばかり大きいと絵にならないので、映画の描写はきっとかなり手加減したのでしょう。

 

現代人の日常からすると荷物を全部背負って何百キロも歩く、というのは普段なかなか経験できませんが、実は学生の頃、友人と二人で渋谷から長野県の上田市まで約180kmを一週間かけて野宿しながら歩いたことがあります。巻き込んだ友人には「中山道を旅してみたい」と表向き話していましたが、最大の動機が『旅の仲間の気分を味わってみたかった』ことであるのは内緒です(笑)。エリアドールと違って食料や水はどこでも手に入るため、寝袋やらなにやら合わせても10kg程度を背負って歩くだけですんだのがやはり大きな違いでしょうか。東海道中膝栗毛なんかを読むと泊まるところも食事も行き先にあるのをあてにできるだけあってかなりの軽装ですので、"宿場町"というのが非常に偉大なインフラだったことは間違いありません。
あと、歩いている間は気力で持たせるのでまだいいのですが、一行程終わるとしばらく動き回る気になりません(笑)。フロドたちも裂け谷やロリエンで一ヶ月かそこらごろごろだらだらしていますが、歩いた期間と同じかそれ以上の日数はそんな感じで休まないと疲労が回復しないというのはわかる気がします。

 

重い荷物を背負って歩いているとだんだん考えるのも億劫になってきて機械的に足を動かすゾンビのようになってきます。周囲を見回す余裕なんて最初のうちだけで、景色なんてそう変わらないのですぐに飽きてきます。1日が終わる頃にはなんでこんなことをしているんだろうという気分になるのは避けられません(笑)。ですが、風景、地形の変化と自分が動いた実感が一対一に対応するので、地理に対する認識がだいぶ変わります。今まで紙の上にしかなかった概念が実体化して、手で触れ、足で踏め、その中で自分が呼吸する"空間"に変わったような違いがあります(残念ながら方向音痴なのは相変わらずですが)。
仕事柄、バーチャルな情報、空疎な数値データの山と曖昧模糊とした統計インデックスばかり扱うことが日常的なのですが、「質量というものは"重荷"であると同時に世界を"現実化(マテリアライズ)"させるためには不可欠な要素なのだ」と、その時以来忘れないようにしています。

遥かなるヌメノール

「ロリエンの葉っぱはあてもなく落ちはしない。」

 

馳夫さんが二人のホビットを攫ったオークを追跡中、ピピンが落としたブローチを見つけて言った台詞ですが、最初一読したときは正直言って繋がりがわかりませんでした。原文でも"Not idly do the leaves of Lórien falls."とあり、情報量は全く変わりません。

 

前後のやりとりから頑張って行間を埋めるとこんな感じでしょうか。

  1. この葉っぱのブローチはロリエンのエルフたちが作った細工物だ。
  2. エルフの細工物は精巧にできているので、走っているうちに勝手に金具が緩んだり、もみ合ってマントが引っ張られたぐらいで外れたりるようなことはないと言っていい。
  3. ゆえに「これは偶然落ちたものではない」着けていた持ち主の手で意図して外され、ここに落とされたと考えるのが妥当だろう......

これだけのことを表すのに冒頭の一文で(原文では倒置まで使った洒落た言い回しで)済ますのですからアラゴルンは探偵業向けかもしれません(笑)。ひるまずに質問してくれるマーティン、もといワトソンみたいな助手役がいれば、ですが。

 

しかし「走っていて勝手に外れたりしないブローチ」をエルフの細工物としてキーアイテムに位置付けるあたり、教授自身は"すぐに緩んでしまうバックルやファスナー"や"なにかの拍子に勝手に外れてしまうボタン"などにうんざりしたことが再三ならずあるのかもしれません......第一次大戦当時の工業レベルを考えると軍隊で支給された装備が今の100均の品物と比べてもがっかりな代物だった可能性は否めません。

 

今のような「ファンタジー」という概念がまだない、というかその元祖である指輪物語で"中世警察"じみた設定の粗探しをするのも的外れではありますが、中つ国の技術レベルの推測はいろいろ複雑です。教授の専門である古英語や北欧の古典がイメージの源泉であることを考えると、基本的にはベオウルフが成立した9世紀からやエッダがまとめられた13世紀ぐらいのヨーロッパを中心に考えればいいでしょうか。オリエントはイスラム帝国アッバース朝のもとで科学や医学が発達し、中国は唐から宋にかけて貨幣経済が普及しました。日本なら平安から鎌倉時代になります。工業製品はなく金属加工も服飾もすべて手作りの時代、火薬は見つかっているけど使えるのは魔法使たちぐらいで、まだ普及はしていない時代、というのが大雑把なイメージでしょうか。

 

そう考えるとビルボの暖炉の上に"時計"があったのはいささかオーパーツ気味ですが、「ホビット」の書き始めのあたりでもありますし、きっとまだ教授自身世界観が確立していなくて筆が滑ったのでしょう。とはいえビルボが手に入れられるかどうかはともかく、頑張れば"西方の細工物"としてなら時計ぐらいは中つ国の世界観でも導入可能かもしれません。機械式時計が実際に普及したのは16世紀ですが、古代ギリシャの沈没船から引き上げられた青銅の歯車で作られた天文時計と見られる機械は*紀元前2世紀*ごろのものと推定されています。上のエルフの数学的知識と、ドワーフに負けないヌメノール人の精巧な技術で歯車とゼンマイを作る根気さえあれば、置き時計ぐらいはなんとか作れるのではないでしょうか。

 

ところで、ドワーフやノームの技術力が高く、魔法のような細工物を作るという伝承はヨーロッパに広く普及しているようですが、日本でも海の向こうから渡ってきたスクナヒコナという小人の神が醸造や医療などの優れた知識をもたらしたとの伝説が古事記に語られています。ギリシャ神話やネイティブ・アメリカンの説話など、世の東西で似たような伝説が生まれているのが興味深いところで、何か背景となるものがあったと思いたくなるところです。

 

海の向こう、で思い出されるのは、2004年に発表されたインドネシアの原人の化石、ホモ・フローレエンシスの話題です。身長が110cm程度と小柄ながら、子供ではなく健康な大人の骨であろうと結論づけられたことから「ホビット」の愛称がつけられたというニュースを記憶している方もいるでしょうか。その後、フィリピンでもホモ・ルゾネンシスという別種の化石が見つかっています。彼らは少なくとも5万年ほど前までは生活しており、ホモ・サピエンスに分類される我々の先祖と同時代に生きていたと考えられています。

 

残念ながら彼らの技術レベルを知る手がかりは見つかっていないのですが、もしかしたら当時の人類より先に独自の文化を開いており、我々の先祖と交流があったのかもしれません。そして彼らとの交流が途絶えた後も、"体が小さくていろいろな知識を持っている異種族がどこか遠いところに住んでいて、まれに贈り物をくれる"というイメージだけが連綿と伝承として残されていたのではないでしょうか。

 

もしかしたら、巨人やゴブリンといった種族についても、我々の先祖が遥か昔に元となる実在の異種族と出会ったことがあったのかもしれません。すくなくとも、いわゆるネアンデルタール人、ホモ・ネアンデルターレンシスと我々の先祖は接触があったことがゲノム解析からわかっています。ギガントピテクスと呼ばれる身長3mの大型類人猿の化石が見つかっていますが、これはいまのところ人類の出現よりも以前に絶滅したと考えられています......ゴブリンに対応しそうな化石や遺跡は見つかってはいませんが、この2、30年でもいろいろな発見があったことを思うと、まだまだ失われた隣人、ミッシング・フェローシップの見つかる余地はあるような気がします。

 

 

#以下、暴力的、性的な記述を含むため、苦手な方、および18歳未満の読者の方はお戻りください。

 

 

 

 

 

 

 

さて、それらしい化石や遺跡は見つかっていないと述べましたが、一点、気になる心当たりがあります。ネアンデルタール人とご先祖が"接触があった"というのを具体的に言うと、ゲノム解析から現在の人類に数パーセントながらネアンデルタール人のゲノムが混ざっているとの報告があり、普通に混血ができていたと考えられています。

 

その一方で、ネアンデルタール人の化石が姿を消すのはホモ・サピエンスが分布を広げるのとほぼ同時期であり、ホモ・サピエンスとの縄張りの競合、もっと言ってしまえば殺し合いがその滅亡の一因になったのでは、という説があります。もしそうだとすると、混血が平和的なロマンスのもと進んだのか、それとも縄張り争いのすえ攫ってきたメスのネアンデルタール人を犯していたのか......生態学的にも歴史的な事実から見ても、後者のほうがあり得ると思うのは私だけでしょうか。

 

ゴブリン/オークの描写というと"粗暴で文化レベルは低いがずる賢く、残忍で、繁殖力が強い種族"というのが定番ですが、5万年前の地上においてそれに最も当てはまるのはホモ・サピエンスのような気もします。そうすると、いまの"人類"は実際にはオークやハーフオークの子孫と見なすべきなのかもしれません。そして5万年後の現在、服を着て車に乗り贅沢な食べ物を食べるようになってはいますが、一皮むけばあまり変わってないのではと言われると、いささか反論しがたいものがあります(泣)。

 

ああ、もしそうだとすると、我々にはヌメノールに、そしてゴンドールに憧憬を抱く資格さえないということになってしまいます。それでもただ一人ガンダルフだけは、我々にも慈悲を抱いてくれるかもしれませんが。

そして全智たるイルーヴァタールの御心の中で、オークたちがどのような位置付けを与えられているのかは、シルマリルから終わらない物語まで、教授の記述のどこを探しても見当たりません。おそらくマンドスその人でもご存知ないのではないでしょうか。

映画『トールキン 旅のはじまり』雑感

この記事は@TolkienWriting さんのイベント #TolkienWritingDay に参加したものです。

 

(ネタバレ多数あります)

 

映画についての事前知識をなるべく入れずに観に行ったためなかなか楽しめましたが、なんかセンチメンタルに振り過ぎていてちょっと悶えるというか胸焼けしそうというか(笑)

 

物語はトールキンの寄宿学校時代からオックスフォード時代のエピソードと、ルシアンもといエディスとの恋愛を中心に第一次大戦塹壕戦のシーンを挟んで進んでいきます。

 

中でも寄宿学校の同級生四人の友情がストーリーの大きな軸となっています。個人的には男子高出身者としてああいうノリには親近感が湧きます(爆)。あそこまで美しくも崇高でもないですが30年近く経ったいまでも腐れ縁みたいな付き合いのあるのは何人かいますし。

 

そしてとにかく風景と音楽が綺麗。また、ちょくちょく原作の描写やロード・オブ・ザ・リングのワンシーンをイメージさせるカットが入るのもまたファンとしては美味しいです。興味深かったのは、その一方で原作の文章の引用がほとんど出てこなかったことで、あくまで"映像として"原作へのオマージュを表そうという監督のこだわりが感じられました。

 

エピソードにも、サムのように忠実な兵卒や、エオウィンのように自由に焦がれるエディス、メリーやピピンのように絆を誓い合う仲間たち...どこか見覚えのあるものが。「そうか、指輪物語のすばらしい描写にはこんな経験が生かされていたのか」と頷きながら「いやでもこれたぶん指輪をとことん読み込んだ監督が原作を投影して想像したシーンだよね...?」と我に返ったり(笑)。

 

個人的にはC.S. ルイスが出てこなかったのが残念。ルイスとの交流や宗教論争などの逸話も好きなのですが。まあドキュメンタリー番組としてならともかく、映画としては地味になりすぎるかしら。

 

映画はトールキンが『ホビット』を執筆し始めるシーンを最後とし、エディスとトールキンの没年と、かの墓碑銘に触れて幕を下ろします。

 

あくまで文字としてはスクリーンに現れませんでしたが、監督の意図していた結びの言葉は、間違いなく私たちの胸に伝わっていたものと思います。

 

「そして二人は一生を終えるまでずっと幸せに暮らしました。」と。

古き言い伝え

この記事はブログ「族長の初夏」の記事を参考にさせていただきました。
 

ホビットの冒険の最後を締めくくるガンダルフのセリフは、若干ですが流れがわかりにくいところがあります。

 

原文を抜き出すと以下のようなセリフです。

"Surely you don't disbelieve the prophecies just because you helped them come about. You don't really suppose do you that all your adventures and escapes were managed by mere luck? Just for your sole benefit? You're a very fine person, Mr. Baggins, and I'm quite fond of you. But you are really just a little fellow, in a wide world after all."

 

これが、瀬田先生の訳では次のようになっています。

「あんたも、予言を信じないわけにはいくまいよ。なにしろあんたも予言の実現には手をかしたひとじゃからな。ところであんたは、あの冒険がすべて、ただ運がよかったために、欲の皮をつっぱらせただけで、きりぬけたと思っとるのじゃなかろうね。あんたは、まことにすてきなひとなんじゃよ、バギンズどの。わしは、心からあんたが好きじゃ。だがそのあんたにしても、この広い世間からみれば、ほんの小さな平凡なひとりにすぎんのだからなあ!」

ここの訳について、リンク先の記事では「ところであんたは」と切るのは不自然だとしていて、次のような訳を提案しています。

「ビルボよ、あんたはまさか、自分のおかげで予言が成就したから予言を信じざるをえないというのじゃなかろうな? あの冒険と脱出がすべて、あんたひとりだけに都合のよい、単なるまぐれで成しとげられたものだと思っているのじゃなかろうな?」

大筋では納得できる流れなのですが、一点だけ私が気になったのは一文目の"信じざるをえない"のところです。
disbelieve、直訳すれば「不信心になる。懐疑的になる。」というネガティブな動詞をもう一度 don't で否定しているので日本人には苦手なタイプの言い回しです。
ですが、すぐ次の文で You don't ~と連続しているので、これをヒントにできる気がします。上述の記事の指摘の通りこの二つの文は繋がっていて、同じ流れに沿った言葉を繰り返しているとみるのが妥当ではないかと思われます。そこで、二文目の「思っているのじゃなかろうな」と同じ方向の意味を持つと仮定すると「(予言に)懐疑的になっているのじゃなかろうな?」あるいは「予言の言葉を信じなくなってしまっているんじゃなかろうな?」というニュアンスで捉えるのがいいのではないでしょうか?

 

思い起こされるのは、ガンダルフが「定められた」何かというものをよく気にしている点です。以前、拙記事の「広い世界の中の小さな役割」で話題にしましたが、中つ国の世界観には、ホビットのような小さな人物がとったさまざまな行動が"偶然"積み重なった結果がピタリとはまって、あたかも全てが予定されてたかのように世界の歴史の流れを大きく変えてしまう、という何か見えざる意図によって"定められていた"運命というモチーフがしばしば現れます。そしてガンダルフは時折セリフの中でそのような運命の働きについてほのめかしています。まあ確かにもしもその"見えざる意図"がイルーヴァタールのものだとすれば、その意図を一番理解できるところにいるのがガンダルフであるのでしょう。

 

そう思ってこのセリフを見れば、ガンダルフの言葉の趣旨が見えてくるような気がします。ビルボからすれば一連の冒険の中ではずっと自分の考えと意思で行動してきたのであり、「山の下の王国が再建できたのは自分を含め皆ががんばったからだ、予言は結果として当たったかもしれないけど、"予言のおかげ"であれが実現したわけじゃないよね」と思いたくなるのはまあ無理もないところでしょう。ですがチェス盤を俯瞰する位置にいるガンダルフからすると、そうやって一人一人が自分の意思で悩み、迷いつつ、ベストを尽くした選択も、また、指輪を拾ってしまうような偶然までも包括しているのが"運命"なのであり、皆が一生懸命ベストを尽くしたことそのものによって、"正しく予言どおりにことが成就した"とみなせるわけです。またそれをサポートするためにあっちこっち行って根回しするのがある意味で彼の"仕事"なのかもしれません。
その彼の視点から、また彼の経験からすれば、予言を軽んじたりそれに逆らおうとしたりするのは不幸のもとにしかならない、ということもよく知っているので、ビルボがもし予言の言葉をないがしろにするような考えを持つようなら、そのあぶなっかしさを諌めるよう釘を刺したくなったのではないでしょうか。ですから"自分がその実現に手を貸したからといって、『あれは予言のおかげなんかじゃない、自分たちの実力なんだ』などと不信心に考えているんじゃなかろうな?"というのがセリフの意図なのではないでしょうか。日本語にdisbeliefにぴったりくる概念がないのでうまくガンダルフっぽい言い回しが出せないのが残念なのですが。

 

定められた運命と自由意志の葛藤については、古代から哲学や神学の論争の的となり物語のテーマにもされていますが、指輪物語でもその二つは隠れた主題の一つになっていると思います。ガラドリエルの奥方様が水鏡のシーンで触れたような、「予言を避けようとした選択が結局予言を実現させてしまう」ケースなどはギリシャ悲劇あたりの定番とも言えるでしょう。ガンダルフの言う「定め」といい、教授の立ち位置はキリスト教よりはどちらかというと古代ストア派のそれに近い気がしないでもありません。

 

ちなみに最近の科学者の間ではヒトの自由意志の人気はそれほど高くないように思われます(笑)。量子力学の不確定性が自由意志を保証していると主張する一派もありますが、その程度の不確定性がヒトの行動という大きな現象の行く末を左右できるかと言うといささか微妙なところがあります。そもそも近年の脳科学の知見では「我々が自分で何かを決定していると思っているのが単なる幻想ではないか」という見方が生まれています。
もしヒトの行動が自由意志ではなくて決定論に従うなら、それを支配するルールを理解すれば予言ができるようになるのか、と言われると、さすがに困難です。天気予報でも計算が複雑すぎてなかなか長期の予報はあたらないというのに、人の運命を予言をするというのは相当にハードルが高いです。ですが、最新のグーグルなどの研究では簡単な会話などはかなり流暢に生成できるようになったりもしているので、今後その精度や応用範囲が広まれば、次第にヒトの行動を模倣し予測することも現実的になってくるでしょう。
あるいはハリー・セルダン教授の"心理歴史学"のように、個々人ならぬ集団的な行動ならもっと簡単に予測できるようになるかもしれません(アシモフのSFの話です。念のため)。もしかしたら我々が"自由"意志など持たぬ運命の下僕であると引導を渡すのは神学ならぬサイエンスの役割になるかもしれません。

 

私自身は、教授の影響をどこかで受けているのかはわかりませんが、ある種の決定論者で、「この世界の事象は宇宙の終わりまで始めから完成されており、われわれはその中の"現在"という点をなぞっているだけだ」という説を支持していたりします。決定論の立場であっても現在の物理学が根本的に間違っていない限り未来予知は原理的に不可能なのですが、もしこの時空の"外側"からこの時空を眺めることができる存在があったならば、本のページをめくるように、あるいはビデオを再生するように、過去や未来を自由に参照することは不可能ではないような気がします。アルダの外から来たと言うマイアールや、アマンから来た上のエルフたちはもしかしたらそのような視点を持っていて予言を行っていたのかもしれません。
現代の物理学がそのような干渉を許していないのは、第四期の終わりあたりにもう一度世界が作り変えられて、改めて外側から完全に切り離されてしまったりしたのでしょうか。今はアマンのヴァラールやエルフたちも、アルダへは手を触れることをせずに、ガラスの中のアクアリウムを眺めるようにこの世界をただぼんやりと鑑賞しているのかもしれません。
ですが、たとえ、向こうからの答えが返ってくることがもはや叶わぬとしても、マンウェやエルベレスへ、そして、エルロンドやガラドリエルガンダルフたちにどうか、この憧れの想いが届くよう、私は祈って已みません。

暁にその名を呼べば

この記事はトールキンライティングデー @TolkienWriting さんの企画、

トールキンアドベントカレンダー2018 16日目のエントリーです。

 

指輪物語において、名前はちょくちょく重要な役割を果たします。

ピピンが「モルドールに行くんだって!」とか「指輪の王ばんざい!」とか口にしてアラゴルンガンダルフに怒られたり、ボロミアが「名を呼ぶをはばかるかの者」なんて言及するあたり、ファンタジーっぽさが溢れ出てワクワクしてきますし、アラゴルンがエオメルに名乗りをあげるシーンは彼がエルフの石を受け取ってからイシルドゥアの後継としての姿を初めて公にするシーンとして感慨もひとしおです(まあ、最初読んだときはそこまでわかってませんでしたが...)。

トム=ボンバディルじいさんは名前を呼ばれてじゃじゃじゃーんとばかりに飛び出てきますし、ルシアンやアルウェンは"ティヌーヴィエル"の名前で呼ばれることによって彼女達の運命に結び付けられました。

名前を呼ぶ、名乗る、名付ける、などの行為が物語の各所で鍵になっています。

 

一方で、本名がはっきりしない人たちも結構出てきます。ギムリをはじめドワーフ達の名前はあくまで"通り名"であり、ドワーフ語=クズドゥルでの本名は秘密として作中に全く出てきません。木の鬚の本名は隠しているわけではないのかもしれませんが呼ぼうとしたら時間がかかるということで言及されていません...エントの時間感覚で随分と長いと言うのですから定命の人間にはちょっと想像がつきません(笑)。

ガンダルフはアマンにいた頃は「オローリン」だったとされていますがこれもエルフ達から呼ばれていた名前というだけなので、マイアにとってこれが本名というのかどうかはわかりません...「ガンダルフ」の語源自体は北欧神話「エッダ」に出てくる「ガンダールヴ」という妖精小人の名前から取られたと思われますが、ノルド語で"魔法を使う小人"ぐらいの意味になります。エッダに出てくる他の名前がトーリン達の名前に使われていることを考えると、固有名詞というよりドワーフ達から単に"魔法使いさん"と呼ばれていた呼称がそのまま定着しただけ、という位置付けなのではないでしょうか。まあその割には"G"のルーンを署名がわりによく使っているあたり、本人は結構気に入っているようですが。

 

世の東西を問わず「正しい名前をつける・本当の名前を知ることこそが物事の本質の理解につがなる」という思想と「物事の本質は名前などがつけられない、より根源的なところにある」という二つの大きな思想の流れがあります。

指輪物語や、ゲド戦記や、はてしない物語など、古典と呼ばれるようなファンタジーにはこれら二つのテーマが繰り返し現れ、その二つの思想の間を往還しながら、より深い想像の境地へと読者を誘うように思われます。私たちにとって「名前のついていないもの」は得てして畏怖の対象になり、それを忌避し排斥してしまうものですが、その混沌と暗闇から目を背けないことも大事なのだと、名付けられた既知の領域だけが世界のすべてではないのだということを教えてくれます。

 

現在の人工知能研究において最も難しい問題の一つに「名前をつける」ことのできるAIの開発が挙げられるかもしれません。教えられたデータに従って翻訳したり発話したりするアルゴリズムはここ数年で驚異的な発展を遂げていますし、将棋やチェスなどではAIがヒトの思いつかなかった新しい定石を発見するに至っているそうですが、新しい言葉とその使い方を創発し、形を与えるというのは、現状、難しいようです。ましてや教授の作り上げたような言語世界をまるごと創造するというのはまだまだハードルが高そうです。少なくとも今しばらくは、言葉を作ることはヒトの特異能力の地位を保っていそうです。

 

あなたもきっと覚えがあるのではないでしょうか、自分の見つけ出したもの、考え出したもの、作り出したものに、名前をつける難しさと——そして、歓びを。 もしそれを識っているならば、あなたもきっと教授と同じ、Homo nōmināns "名前をつけるヒト"ーー混沌に名前をつけ、影に光をあて、新しい朝を呼ぶことのできる一族の裔なのです。

 

 

P. S.

風見ヶ丘でのキャンプ中、フロドが「ギル=ガラドはモル(ドールで)...」と言いかけたのを鋭く遮ったアラゴルンですが、そのちょっと後でベレンの勲を物語っている時には「モルドールサウロンなどはその召使いの一人に過ぎなかった〜」と、しれっと名前を口にしてしまっています(サウロンが聞いたら真っ赤になって逆上しそうな言い草です)。しかもこのアラゴルンの語りが終わって間も無くナズグルに襲撃されているので、もしかしたらフロドがあんな目にあった責任の何パーセントかは口を滑らしたアラゴルンにもあるのかもしれません(笑)。