悪霊よけ

ラダガストがわざわざガンダルフを探して伝えに来た「九人組が大河を渡った」という知らせ、まあ確かに厄介そうな話ではありますが、教授としては私たちの印象よりも深い象徴を意図しているのではなかろうか、という話を。

 

体系だって調べたわけではないのですが、スコットランドアイルランドなどの民話を読んでいると悪霊、悪い妖精、魔女などが「流水を渡れない」という描写がときどき出て来ます。最近では吸血鬼の弱点として一部で有名かもしれませんが、そのルーツ、『ドラキュラ』の作者であるブラム・ストーカーはアイルランド出身です。同じくアイルランドの伝承にある首なし騎士の「デュラハン」など、悪霊の類いに追われたら川を渡って逃げることで九死に一生を得るのが向こうの昔話の定番なようです。 民間伝承なので根拠は特にないようですが、肉体を持たず、存在が希薄な「影の住人たち」は流水にさらされるとその力がガリガリと削られ、魂が溶けてしまうようなイメージなのかもしれません。

 

で、ラダガストの報告は、指輪物語におけるナズグルも悪霊の一種としてそれに準じていることを表しているのでは、という推測です。サウロンが力をつけることでナズグルも大河を越えられるようになる、という言い方なので、原理的に越えることが禁止された境界、というよりは、越えるには相当の損失を覚悟する必要があるような「ダメージ障壁」のような存在でしょうか。まあ橋を通ったり空を飛んで越えたりすればあまり問題にならないようなので、単にカナヅチという可能性も。

 

そういえばフロドたちがブランディワインの渡しを越えたときに向こう岸にナズグルらしき影がいましたが、結局渡ってくることはありませんでした。馬なら川を泳いで来れるのではないか、との説もありましたが、ナズグルとしてはそこまでして渡りたくなかったようです。

また、ブルイネンの浅瀬の前でほとんどフロドに追いついていた乗り手たちも、フロドが渡り切るまで岸辺で足踏みしていました。そのあと川に入って来たのも首領を始めとする3人だけ、となっています。ここでフロドと指輪を逃すわけには行かぬ、とのサウロンからの猛烈な重圧を受けて、9人の中でも魔力が大きめのものだけが、ようやく意を決して川へと踏み込めたという状況だったのではないでしょうか。気分はほとんどパワハラ社長から紐なしバンジージャンプを強要させられた中間管理職です。その挙句全員流されてしまったのですから災難もひとしおです。再登場まで3か月近く間が空いていますが、サウロンの力が上り調子だったとはいえ、彼らがごっそりと失った魔力を回復するのにそれぐらいかかったのかもしれません。出て来た途端レゴラスに射ち落とされたのが誰かは分かりませんが、川にだけは落ちまいと必死だったのではないでしょうか。

 

まあ流水云々が本編に特に描写はされていないようなのであくまで推測ですが、裏設定というよりはおそらくイギリス人にとってはあたりまえすぎる認識なためにわざわざ書く必要があると考えなかった、という気もします。その辺り、ヨーロッパ、というかイギリス、とくにアイルランド方面の伝承に詳しい識者の方がいたら、一度詳しく聞いてみたいところです。

 

P. S.

地勢的にはロスロリエンとイムラドリスはそれぞれ近くの川をあらかじめ防衛線に組み込んで築かれているのではないかと考えられます(まあ、悪霊云々を抜きにしても基本ではあります)が、その反面、オスギリアスがアンデュインをど真ん中に据えるという開放的な設計なのは、時代の違いなのかゴンドールの勢いがそれだけ盛んで防衛を気にするより流通が重要視されたせいなのか、デネソール侯辺りなら教えてくれるでしょうか。

 

 

※ 3/21追記 見落としていたのですが「終わらざりし物語」に具体的な記述がありました。

ナズグルはアングマールの魔王を除いて水を恐れ、橋などを使わずに足を濡らして流れを渡ることは、よほどのことがない限り避ける、とのことです。理由は特に見当たりませんでした。