古き言い伝え

この記事はブログ「族長の初夏」の記事を参考にさせていただきました。
 

ホビットの冒険の最後を締めくくるガンダルフのセリフは、若干ですが流れがわかりにくいところがあります。

 

原文を抜き出すと以下のようなセリフです。

"Surely you don't disbelieve the prophecies just because you helped them come about. You don't really suppose do you that all your adventures and escapes were managed by mere luck? Just for your sole benefit? You're a very fine person, Mr. Baggins, and I'm quite fond of you. But you are really just a little fellow, in a wide world after all."

 

これが、瀬田先生の訳では次のようになっています。

「あんたも、予言を信じないわけにはいくまいよ。なにしろあんたも予言の実現には手をかしたひとじゃからな。ところであんたは、あの冒険がすべて、ただ運がよかったために、欲の皮をつっぱらせただけで、きりぬけたと思っとるのじゃなかろうね。あんたは、まことにすてきなひとなんじゃよ、バギンズどの。わしは、心からあんたが好きじゃ。だがそのあんたにしても、この広い世間からみれば、ほんの小さな平凡なひとりにすぎんのだからなあ!」

ここの訳について、リンク先の記事では「ところであんたは」と切るのは不自然だとしていて、次のような訳を提案しています。

「ビルボよ、あんたはまさか、自分のおかげで予言が成就したから予言を信じざるをえないというのじゃなかろうな? あの冒険と脱出がすべて、あんたひとりだけに都合のよい、単なるまぐれで成しとげられたものだと思っているのじゃなかろうな?」

大筋では納得できる流れなのですが、一点だけ私が気になったのは一文目の"信じざるをえない"のところです。
disbelieve、直訳すれば「不信心になる。懐疑的になる。」というネガティブな動詞をもう一度 don't で否定しているので日本人には苦手なタイプの言い回しです。
ですが、すぐ次の文で You don't ~と連続しているので、これをヒントにできる気がします。上述の記事の指摘の通りこの二つの文は繋がっていて、同じ流れに沿った言葉を繰り返しているとみるのが妥当ではないかと思われます。そこで、二文目の「思っているのじゃなかろうな」と同じ方向の意味を持つと仮定すると「(予言に)懐疑的になっているのじゃなかろうな?」あるいは「予言の言葉を信じなくなってしまっているんじゃなかろうな?」というニュアンスで捉えるのがいいのではないでしょうか?

 

思い起こされるのは、ガンダルフが「定められた」何かというものをよく気にしている点です。以前、拙記事の「広い世界の中の小さな役割」で話題にしましたが、中つ国の世界観には、ホビットのような小さな人物がとったさまざまな行動が"偶然"積み重なった結果がピタリとはまって、あたかも全てが予定されてたかのように世界の歴史の流れを大きく変えてしまう、という何か見えざる意図によって"定められていた"運命というモチーフがしばしば現れます。そしてガンダルフは時折セリフの中でそのような運命の働きについてほのめかしています。まあ確かにもしもその"見えざる意図"がイルーヴァタールのものだとすれば、その意図を一番理解できるところにいるのがガンダルフであるのでしょう。

 

そう思ってこのセリフを見れば、ガンダルフの言葉の趣旨が見えてくるような気がします。ビルボからすれば一連の冒険の中ではずっと自分の考えと意思で行動してきたのであり、「山の下の王国が再建できたのは自分を含め皆ががんばったからだ、予言は結果として当たったかもしれないけど、"予言のおかげ"であれが実現したわけじゃないよね」と思いたくなるのはまあ無理もないところでしょう。ですがチェス盤を俯瞰する位置にいるガンダルフからすると、そうやって一人一人が自分の意思で悩み、迷いつつ、ベストを尽くした選択も、また、指輪を拾ってしまうような偶然までも包括しているのが"運命"なのであり、皆が一生懸命ベストを尽くしたことそのものによって、"正しく予言どおりにことが成就した"とみなせるわけです。またそれをサポートするためにあっちこっち行って根回しするのがある意味で彼の"仕事"なのかもしれません。
その彼の視点から、また彼の経験からすれば、予言を軽んじたりそれに逆らおうとしたりするのは不幸のもとにしかならない、ということもよく知っているので、ビルボがもし予言の言葉をないがしろにするような考えを持つようなら、そのあぶなっかしさを諌めるよう釘を刺したくなったのではないでしょうか。ですから"自分がその実現に手を貸したからといって、『あれは予言のおかげなんかじゃない、自分たちの実力なんだ』などと不信心に考えているんじゃなかろうな?"というのがセリフの意図なのではないでしょうか。日本語にdisbeliefにぴったりくる概念がないのでうまくガンダルフっぽい言い回しが出せないのが残念なのですが。

 

定められた運命と自由意志の葛藤については、古代から哲学や神学の論争の的となり物語のテーマにもされていますが、指輪物語でもその二つは隠れた主題の一つになっていると思います。ガラドリエルの奥方様が水鏡のシーンで触れたような、「予言を避けようとした選択が結局予言を実現させてしまう」ケースなどはギリシャ悲劇あたりの定番とも言えるでしょう。ガンダルフの言う「定め」といい、教授の立ち位置はキリスト教よりはどちらかというと古代ストア派のそれに近い気がしないでもありません。

 

ちなみに最近の科学者の間ではヒトの自由意志の人気はそれほど高くないように思われます(笑)。量子力学の不確定性が自由意志を保証していると主張する一派もありますが、その程度の不確定性がヒトの行動という大きな現象の行く末を左右できるかと言うといささか微妙なところがあります。そもそも近年の脳科学の知見では「我々が自分で何かを決定していると思っているのが単なる幻想ではないか」という見方が生まれています。
もしヒトの行動が自由意志ではなくて決定論に従うなら、それを支配するルールを理解すれば予言ができるようになるのか、と言われると、さすがに困難です。天気予報でも計算が複雑すぎてなかなか長期の予報はあたらないというのに、人の運命を予言をするというのは相当にハードルが高いです。ですが、最新のグーグルなどの研究では簡単な会話などはかなり流暢に生成できるようになったりもしているので、今後その精度や応用範囲が広まれば、次第にヒトの行動を模倣し予測することも現実的になってくるでしょう。
あるいはハリー・セルダン教授の"心理歴史学"のように、個々人ならぬ集団的な行動ならもっと簡単に予測できるようになるかもしれません(アシモフのSFの話です。念のため)。もしかしたら我々が"自由"意志など持たぬ運命の下僕であると引導を渡すのは神学ならぬサイエンスの役割になるかもしれません。

 

私自身は、教授の影響をどこかで受けているのかはわかりませんが、ある種の決定論者で、「この世界の事象は宇宙の終わりまで始めから完成されており、われわれはその中の"現在"という点をなぞっているだけだ」という説を支持していたりします。決定論の立場であっても現在の物理学が根本的に間違っていない限り未来予知は原理的に不可能なのですが、もしこの時空の"外側"からこの時空を眺めることができる存在があったならば、本のページをめくるように、あるいはビデオを再生するように、過去や未来を自由に参照することは不可能ではないような気がします。アルダの外から来たと言うマイアールや、アマンから来た上のエルフたちはもしかしたらそのような視点を持っていて予言を行っていたのかもしれません。
現代の物理学がそのような干渉を許していないのは、第四期の終わりあたりにもう一度世界が作り変えられて、改めて外側から完全に切り離されてしまったりしたのでしょうか。今はアマンのヴァラールやエルフたちも、アルダへは手を触れることをせずに、ガラスの中のアクアリウムを眺めるようにこの世界をただぼんやりと鑑賞しているのかもしれません。
ですが、たとえ、向こうからの答えが返ってくることがもはや叶わぬとしても、マンウェやエルベレスへ、そして、エルロンドやガラドリエルガンダルフたちにどうか、この憧れの想いが届くよう、私は祈って已みません。