遥かなるヌメノール

「ロリエンの葉っぱはあてもなく落ちはしない。」

 

馳夫さんが二人のホビットを攫ったオークを追跡中、ピピンが落としたブローチを見つけて言った台詞ですが、最初一読したときは正直言って繋がりがわかりませんでした。原文でも"Not idly do the leaves of Lórien falls."とあり、情報量は全く変わりません。

 

前後のやりとりから頑張って行間を埋めるとこんな感じでしょうか。

  1. この葉っぱのブローチはロリエンのエルフたちが作った細工物だ。
  2. エルフの細工物は精巧にできているので、走っているうちに勝手に金具が緩んだり、もみ合ってマントが引っ張られたぐらいで外れたりるようなことはないと言っていい。
  3. ゆえに「これは偶然落ちたものではない」着けていた持ち主の手で意図して外され、ここに落とされたと考えるのが妥当だろう......

これだけのことを表すのに冒頭の一文で(原文では倒置まで使った洒落た言い回しで)済ますのですからアラゴルンは探偵業向けかもしれません(笑)。ひるまずに質問してくれるマーティン、もといワトソンみたいな助手役がいれば、ですが。

 

しかし「走っていて勝手に外れたりしないブローチ」をエルフの細工物としてキーアイテムに位置付けるあたり、教授自身は"すぐに緩んでしまうバックルやファスナー"や"なにかの拍子に勝手に外れてしまうボタン"などにうんざりしたことが再三ならずあるのかもしれません......第一次大戦当時の工業レベルを考えると軍隊で支給された装備が今の100均の品物と比べてもがっかりな代物だった可能性は否めません。

 

今のような「ファンタジー」という概念がまだない、というかその元祖である指輪物語で"中世警察"じみた設定の粗探しをするのも的外れではありますが、中つ国の技術レベルの推測はいろいろ複雑です。教授の専門である古英語や北欧の古典がイメージの源泉であることを考えると、基本的にはベオウルフが成立した9世紀からやエッダがまとめられた13世紀ぐらいのヨーロッパを中心に考えればいいでしょうか。オリエントはイスラム帝国アッバース朝のもとで科学や医学が発達し、中国は唐から宋にかけて貨幣経済が普及しました。日本なら平安から鎌倉時代になります。工業製品はなく金属加工も服飾もすべて手作りの時代、火薬は見つかっているけど使えるのは魔法使たちぐらいで、まだ普及はしていない時代、というのが大雑把なイメージでしょうか。

 

そう考えるとビルボの暖炉の上に"時計"があったのはいささかオーパーツ気味ですが、「ホビット」の書き始めのあたりでもありますし、きっとまだ教授自身世界観が確立していなくて筆が滑ったのでしょう。とはいえビルボが手に入れられるかどうかはともかく、頑張れば"西方の細工物"としてなら時計ぐらいは中つ国の世界観でも導入可能かもしれません。機械式時計が実際に普及したのは16世紀ですが、古代ギリシャの沈没船から引き上げられた青銅の歯車で作られた天文時計と見られる機械は*紀元前2世紀*ごろのものと推定されています。上のエルフの数学的知識と、ドワーフに負けないヌメノール人の精巧な技術で歯車とゼンマイを作る根気さえあれば、置き時計ぐらいはなんとか作れるのではないでしょうか。

 

ところで、ドワーフやノームの技術力が高く、魔法のような細工物を作るという伝承はヨーロッパに広く普及しているようですが、日本でも海の向こうから渡ってきたスクナヒコナという小人の神が醸造や医療などの優れた知識をもたらしたとの伝説が古事記に語られています。ギリシャ神話やネイティブ・アメリカンの説話など、世の東西で似たような伝説が生まれているのが興味深いところで、何か背景となるものがあったと思いたくなるところです。

 

海の向こう、で思い出されるのは、2004年に発表されたインドネシアの原人の化石、ホモ・フローレエンシスの話題です。身長が110cm程度と小柄ながら、子供ではなく健康な大人の骨であろうと結論づけられたことから「ホビット」の愛称がつけられたというニュースを記憶している方もいるでしょうか。その後、フィリピンでもホモ・ルゾネンシスという別種の化石が見つかっています。彼らは少なくとも5万年ほど前までは生活しており、ホモ・サピエンスに分類される我々の先祖と同時代に生きていたと考えられています。

 

残念ながら彼らの技術レベルを知る手がかりは見つかっていないのですが、もしかしたら当時の人類より先に独自の文化を開いており、我々の先祖と交流があったのかもしれません。そして彼らとの交流が途絶えた後も、"体が小さくていろいろな知識を持っている異種族がどこか遠いところに住んでいて、まれに贈り物をくれる"というイメージだけが連綿と伝承として残されていたのではないでしょうか。

 

もしかしたら、巨人やゴブリンといった種族についても、我々の先祖が遥か昔に元となる実在の異種族と出会ったことがあったのかもしれません。すくなくとも、いわゆるネアンデルタール人、ホモ・ネアンデルターレンシスと我々の先祖は接触があったことがゲノム解析からわかっています。ギガントピテクスと呼ばれる身長3mの大型類人猿の化石が見つかっていますが、これはいまのところ人類の出現よりも以前に絶滅したと考えられています......ゴブリンに対応しそうな化石や遺跡は見つかってはいませんが、この2、30年でもいろいろな発見があったことを思うと、まだまだ失われた隣人、ミッシング・フェローシップの見つかる余地はあるような気がします。

 

 

#以下、暴力的、性的な記述を含むため、苦手な方、および18歳未満の読者の方はお戻りください。

 

 

 

 

 

 

 

さて、それらしい化石や遺跡は見つかっていないと述べましたが、一点、気になる心当たりがあります。ネアンデルタール人とご先祖が"接触があった"というのを具体的に言うと、ゲノム解析から現在の人類に数パーセントながらネアンデルタール人のゲノムが混ざっているとの報告があり、普通に混血ができていたと考えられています。

 

その一方で、ネアンデルタール人の化石が姿を消すのはホモ・サピエンスが分布を広げるのとほぼ同時期であり、ホモ・サピエンスとの縄張りの競合、もっと言ってしまえば殺し合いがその滅亡の一因になったのでは、という説があります。もしそうだとすると、混血が平和的なロマンスのもと進んだのか、それとも縄張り争いのすえ攫ってきたメスのネアンデルタール人を犯していたのか......生態学的にも歴史的な事実から見ても、後者のほうがあり得ると思うのは私だけでしょうか。

 

ゴブリン/オークの描写というと"粗暴で文化レベルは低いがずる賢く、残忍で、繁殖力が強い種族"というのが定番ですが、5万年前の地上においてそれに最も当てはまるのはホモ・サピエンスのような気もします。そうすると、いまの"人類"は実際にはオークやハーフオークの子孫と見なすべきなのかもしれません。そして5万年後の現在、服を着て車に乗り贅沢な食べ物を食べるようになってはいますが、一皮むけばあまり変わってないのではと言われると、いささか反論しがたいものがあります(泣)。

 

ああ、もしそうだとすると、我々にはヌメノールに、そしてゴンドールに憧憬を抱く資格さえないということになってしまいます。それでもただ一人ガンダルフだけは、我々にも慈悲を抱いてくれるかもしれませんが。

そして全智たるイルーヴァタールの御心の中で、オークたちがどのような位置付けを与えられているのかは、シルマリルから終わらない物語まで、教授の記述のどこを探しても見当たりません。おそらくマンドスその人でもご存知ないのではないでしょうか。