新年の14日

この記事は @TolkienWriting さん主催のイベント

#TolkienWritingDay に参加して投稿したものです。過去のイベントはこちら

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今日(4/8)はゴンドールの新暦では新年の14日、フロドとサムがイシリエンで目を覚ましてガンダルフたち旅の仲間と再会し、エレサール王に祝福された日です。

...サウロンが滅びた日を新年の始まりと定めたわけですが、二人ともサンマス・ナウアから救出された後、まる二週間昏睡していたことになります。点滴もなしに大丈夫なのかと言う気がしないでもないですが、まあありえないほど長いわけでもないでしょうか。教授が従軍していた頃には前線の病院ではそんな話はいくらでもあったのかもしれません。

 

我々に従軍経験があるわけではないので対比できるものでもないのですが、フロドたちのモルドール行やモルドールのオークたちの振る舞いには教授の若い頃の参戦の経験がおそらくいろいろ反映されているのでしょう。ホビットの冒険から旅の仲間の頃はどこか漠然としていたオークの描像も、二つの塔から王の帰還と進むにつれて、罵り合ったり裏切ったりと妙になまなましくなって、兵卒っぽくなってきます。

「お前の番号を届け出るぞ!」との台詞を初めて読んだ時にはなんとも言えない衝撃を受けたのを今でも覚えています。あえて分析するなら、それまで鬼畜として容赦無く駆逐すべき敵だと思っていたオークたちが、彼らなりの社会組織を持ち、人間とどこかしら似た、彼ら自身の生活を送っている生き物なのだと初めて認識した気持ちでしょうか。

 

また、モルドール行においてフロドたちが悩まされる寒さや空腹や渇き、蓄積する疲労、荷物の重さ、そういったひとつひとつの描写のリアリティは他のさまざまな小説と比べても群を抜いていて、読んでいるだけで息苦しくなってくるほどです。私も昔は山歩きなどもしていたので部分的にはイメージできますが、ここまで極限的な行程は経験したことがありませんし、しようと思ってできるものでもありません(笑)

 

指輪物語の魅力として、教授の言語学的な造詣やシルマリルに遡る重層的な歴史の記述、また地図や年表などの細かな設定が言及されることは多いのですが、 もう一つ、別の軸として、ちまたのどんなファンタジーよりも濃密なリアリティをその背後に持ちながら、それを突き放して透明に描くことによって幻想の中に融合させてしまったというその距離感を挙げてもいいかもしれません。昨今のファンタジーにありがちなような、仮想世界の設定を一生懸命盛り込んだり、逆に身近なものをそのまま持ち込んで臨場感を出してみたり、といった程度の描写では、はなから太刀打ちできない奥行きの違いが、そこにはあるような気がします。

そういった暗めのリアリティ、過酷な経験や悲しい出来事が背景にありそうな描写は指輪物語の中にはそこかしこにあるように思われます。しかし、その痛みや悲しみをことさらに強調したりすることはなく、どちらかというと淡々と、世界の背景の中に埋め込まれるようにして描かれています。

 

その静けさはダンセイニやイェイツらに代表されるアイルランド文学にしばしば見られる、どこか寂しげな、諦念に似た世界観とも繋がっているようにも思えます。そこには美しいものが永遠に損なわれることのない彼岸への憧憬を抱きながら、それでもなお、苦しみや悲しみと無縁ではいられないこの此岸を愛する心が歌われているのだと思います。ちょうど、鷗に海へと誘われたレゴラスのように、エルベレスを讃える上のエルフたちのように。その響きこそが、指輪物語を単なる空想の域を超えた文学として、世界中の多くの読者を魅了させるものにしているのではないでしょうか。