暁にその名を呼べば
この記事はトールキンライティングデー @TolkienWriting さんの企画、
トールキンアドベントカレンダー2018 16日目のエントリーです。
指輪物語において、名前はちょくちょく重要な役割を果たします。
ピピンが「モルドールに行くんだって!」とか「指輪の王ばんざい!」とか口にしてアラゴルンやガンダルフに怒られたり、ボロミアが「名を呼ぶをはばかるかの者」なんて言及するあたり、ファンタジーっぽさが溢れ出てワクワクしてきますし、アラゴルンがエオメルに名乗りをあげるシーンは彼がエルフの石を受け取ってからイシルドゥアの後継としての姿を初めて公にするシーンとして感慨もひとしおです(まあ、最初読んだときはそこまでわかってませんでしたが...)。
トム=ボンバディルじいさんは名前を呼ばれてじゃじゃじゃーんとばかりに飛び出てきますし、ルシアンやアルウェンは"ティヌーヴィエル"の名前で呼ばれることによって彼女達の運命に結び付けられました。
名前を呼ぶ、名乗る、名付ける、などの行為が物語の各所で鍵になっています。
一方で、本名がはっきりしない人たちも結構出てきます。ギムリをはじめドワーフ達の名前はあくまで"通り名"であり、ドワーフ語=クズドゥルでの本名は秘密として作中に全く出てきません。木の鬚の本名は隠しているわけではないのかもしれませんが呼ぼうとしたら時間がかかるということで言及されていません...エントの時間感覚で随分と長いと言うのですから定命の人間にはちょっと想像がつきません(笑)。
ガンダルフはアマンにいた頃は「オローリン」だったとされていますがこれもエルフ達から呼ばれていた名前というだけなので、マイアにとってこれが本名というのかどうかはわかりません...「ガンダルフ」の語源自体は北欧神話「エッダ」に出てくる「ガンダールヴ」という妖精小人の名前から取られたと思われますが、ノルド語で"魔法を使う小人"ぐらいの意味になります。エッダに出てくる他の名前がトーリン達の名前に使われていることを考えると、固有名詞というよりドワーフ達から単に"魔法使いさん"と呼ばれていた呼称がそのまま定着しただけ、という位置付けなのではないでしょうか。まあその割には"G"のルーンを署名がわりによく使っているあたり、本人は結構気に入っているようですが。
世の東西を問わず「正しい名前をつける・本当の名前を知ることこそが物事の本質の理解につがなる」という思想と「物事の本質は名前などがつけられない、より根源的なところにある」という二つの大きな思想の流れがあります。
指輪物語や、ゲド戦記や、はてしない物語など、古典と呼ばれるようなファンタジーにはこれら二つのテーマが繰り返し現れ、その二つの思想の間を往還しながら、より深い想像の境地へと読者を誘うように思われます。私たちにとって「名前のついていないもの」は得てして畏怖の対象になり、それを忌避し排斥してしまうものですが、その混沌と暗闇から目を背けないことも大事なのだと、名付けられた既知の領域だけが世界のすべてではないのだということを教えてくれます。
現在の人工知能研究において最も難しい問題の一つに「名前をつける」ことのできるAIの開発が挙げられるかもしれません。教えられたデータに従って翻訳したり発話したりするアルゴリズムはここ数年で驚異的な発展を遂げていますし、将棋やチェスなどではAIがヒトの思いつかなかった新しい定石を発見するに至っているそうですが、新しい言葉とその使い方を創発し、形を与えるというのは、現状、難しいようです。ましてや教授の作り上げたような言語世界をまるごと創造するというのはまだまだハードルが高そうです。少なくとも今しばらくは、言葉を作ることはヒトの特異能力の地位を保っていそうです。
あなたもきっと覚えがあるのではないでしょうか、自分の見つけ出したもの、考え出したもの、作り出したものに、名前をつける難しさと——そして、歓びを。 もしそれを識っているならば、あなたもきっと教授と同じ、Homo nōmināns "名前をつけるヒト"ーー混沌に名前をつけ、影に光をあて、新しい朝を呼ぶことのできる一族の裔なのです。
P. S.
風見ヶ丘でのキャンプ中、フロドが「ギル=ガラドはモル(ドールで)...」と言いかけたのを鋭く遮ったアラゴルンですが、そのちょっと後でベレンの勲を物語っている時には「モルドールのサウロンなどはその召使いの一人に過ぎなかった〜」と、しれっと名前を口にしてしまっています(サウロンが聞いたら真っ赤になって逆上しそうな言い草です)。しかもこのアラゴルンの語りが終わって間も無くナズグルに襲撃されているので、もしかしたらフロドがあんな目にあった責任の何パーセントかは口を滑らしたアラゴルンにもあるのかもしれません(笑)。